いろいろと思うこと

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”貧しき漁夫” ピエール・ピュビス・ド・シャバンヌ作 国立西洋美術館所蔵

 縦長の長方形のカンバスに、二人の親子が船で漁をする様子が描かれている。漁といっても、大掛かりなものではない。粗末な船に粗末な漁具が備え付けられているだけである。。第一、場所も漁に適した場所であるとは思えない。陸から少し離れた浅瀬で何が釣れるというのだろうか。よもや、この釣りをしている男性も何かが連れると思っているわけではないだろう。たぶん、彼は自分の生活の糧である漁がもはやどんな手を尽くしたところで成功しないということに気がついているのだ。それゆえに、彼はこんな無益なことをしているのだろう。彼の体は痩せ細り、頬はこけてひげはすっかり苔むしている。彼はもしかしたら、何日も、何も食べていないのかもしれない。服ももはやその機能をとうに失ってしまったかのように、体を保護するという役目を放棄したものになってしまっている。
 題名の”貧しき漁夫”とは、彼のこと、つまり親子のうちの親の方のことであろう。彼自身は、きっと今の生活、そして今後の生活にたいして何の希望も見出すことができない。舞台となる場面も薄暗くどんよりとした感じがあたりを支配している。例えば、地面に目を向けてみる。そこはすっかり灰色で埋め尽くされており、わずかな命のかけらさえ見当たらない。くすんだ水面は、将来が見通せない親子の絶望を表しているかのようだし、空の灰色も、彼らの展望はすっかり闇につつまれているといった感じを抱かせる。
 ただ、これが絶望的な雰囲気に包まれた絵であるといっても、そこに何の希望も見出せないといったら、決してそういうことではない。親の端に目を向けると、そこにはかすかな光をたたえる存在がある。それは、藁に寝る幼子の姿だ。これにかけて、漁夫である親は、日々の生活を何とか乗り切っているのであろう。何より、この子供が、親同様にやせてはいない点に注目がいく。彼は自分を追い込んでまで、この幼子のために必死になっているのだ。そして、周りに目を向けてみると、親子の乗った船の後ろに、僅かながらではあるが花が咲いている。黄色と白の花。暗澹とした大地に宿った、実りの時期にしては少ない命の芽吹き。季節は春から初夏にかけてであろうか。最後に、空へと目を向けてみる。濁った雲に目を凝らしていると、奥のほうに雲の切れ間が見える。そこから覗くのは、澄んだ青空のきれいな色と、光である。ここには、絶望の中にあっても確かに展望があるのだ。後は、親がそれに気がつくだけである。下を眺めてばかりいる親が、ただ上を向きさえすれば、希望はそこにあるのだ。ただ、残念ながら親はこの後も希望を見つけることはないだろう。とすると、残された道は幼子だけである。幼子自身も、確かに光を帯びている。彼が親の救世主たる存在であるということなのだろうか。そうした考えをすれば、この絵はキリスト教的な感じを含んでいるということにも説明がつきそうである。

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”あひるの子” ジョン・エヴァレット・ミレイ作 国立西洋美術館所蔵

 縦長の長方形のカンバスに、一人の少女が描かれている。この少女は、一見すると非常に可愛らしい。目鼻立ちははっきりとしているし、服装は子供っぽさを感じさせながらも真っ直ぐにこちらを見つめる視線には、どこか大人びた感じが含まれている。姿勢を正してしっかりと立つその姿は、どこか良家の令嬢のような、教育の行き届いた子供であろうかのようにさえ感じられる。彼女からいったん視線をはずして、下のほうに目を向けてみる。彼女が立つその下には水辺があり、そこには4羽のアヒルが浮いている。一番右側には親のアヒルが1羽いて、そしてその隣に1羽、左側に2羽の子供のアヒルがいる。これもまた、少女の愛らしさを彩る一つの要素となっている。
 さて、少女とアヒルを鑑賞し終えた後、少し視線をいろいろなところに移してみると、不思議なことに気がつく。それは、少女の立つ背景があまりに暗い点と、一見して可愛らしい少女の服装が少しばかりおかしい点である。背景については、少女の姿を際立たせるためにあえて暗くしたという説明ができるかもしれない。実際のところ、その方が妥当な考えであるように思える。ただ、服装を加味してもう一度考えてみると、それは少し違うのではないかということが次第にわかってきた。
 少女の服装は、少し見ただけではなんら変なところはない。むしろ、当時としては裕福な家庭で育っただろう服装でさえある。それがそうであったとしても、本当の問題は、その服装の細部についてだ。彼女の靴に目をやると、両足には穴が開いていることに気がつく。腰の部分にある紐は、彼女にあてがわれた、大きすぎてどうしようもない服をどうにかして着るためのものであろうか。その紐にしたって、後ろに垂れるところからして明らかに長すぎるものだ。そして彼女の髪は、伸びるままに任せて櫛づけさえされていないといったように、まったく整えられている形跡が見られない。彼女の家庭が裕福であるという前提をおけば、前の二つは奇妙であるし、たとえ裕福でなかっとしても、髪に関してはまったくの言い訳がたたない。
 そういった風にこの絵を見ると、この少女の可愛らしい感じは途端に違ったものへと変わる。彼女の表情のかたさは、大人びたというよりは、親の愛情を知らずにどう自分を表現すればいいか分からない子供の苦悩を表しているようだし、姿勢の正しさは行儀のよさというよりは、行き過ぎた躾に対する恐怖からくるもののように思えてくる。彼女はまったく気丈であると思う。ただ、その力強さの中にも弱さが感じられる。それは、目線である。こちらをじっと見つめる、少しうるんだようなその視線は、私たちに対して何らかの救いを求めているように見える。それはさながら遊廓に身を落とされた女性の悲痛さを持っている。そして、その遊廓の女性と同様に、私たちは彼女を救うことはできない。彼女が立つところは、水辺である。そこから先に私たちの存在があることは絶対にない。私たちは彼女を見つめ返すほかないのだ。ハンカチをぎゅっと握りしめながら、彼女はずっとそこに立ち続けるのだろう。

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”戦場から逃げ出したパリスを責めるヘクトール” アンゲリカ・カウフマン作 国立西洋美術館所蔵

 縦長の長方形のカンバス。画面全体には6人の人物が描かれている。中でもスポットライトを浴びているのが、中央部にいる三人だ。弓を持った青年がその中の中央に座り、騎士風の姿をした同じくらいの年嵩の青年がその右に立ち、ローブをまとった、これも同じくらいの女性が少し体をねじらせた状態で、弓をもった男性の左に立っている。弓を持った青年は、力を抜ききった状態でだらしなく座っており、それを、騎士風の青年が責め立て、女性もそれに加勢するような姿勢をとっている。タイトルから察するに、弓を持った青年が戦場から逃げ帰ったパリスで、その横にいてパリスを責めているのがヘクトールであろう。だとすると、この女性は誰だろうか。ヘクトールに加勢しているところからみるに、たぶんヘクトールの妻ではないかと思う。
この出来事が繰り広げられている場面は、たぶん市民の休憩所か何かだろう。画面の端ではお香がゆっくりと煙をあげている。服装から見るに季節はたぶん春から夏にかけてのいつか、時間としては昼食を終えたあたりだろうか。照りつける西日が中心人物にあたっている。
 パリスは諦めの混じった笑いを浮かべながら、その奥では自分の無力さを恨んでいるような様子である。そしてヘクトールは、厳然とした表情で、指を、今しがた自分がパリスを連れ戻すために舞い戻ってきた戦地の方向へと向けている。そう、ヘクトールは今しがた戦地から帰還したばかりなのだ。彼の服装は、兜に鎧風の衣装、そして動きやすそうなサンダルと明らかに戦場にいる戦士のそれである。それはパリスの服装と比較してみると、よりはっきりとわかる。彼の服装は一見するにゆったりとした羽織と皮製の靴で、戦場で動き回るには少し不便な格好と言うほかない。ということはつまり、パリスはだいぶ前に戦地から戻ってきていたということになる。老人が杖に頼るような格好で弓に体重を任せる彼の姿勢からは、もはや戦意など感じられない。果たしてパリスはこの後、戦場へと戻るのであろうか。それはよくわからない。
 この絵で目を引く点は、まだある。それは、ヘクトールの妻と思しき女性である。彼女もヘクトールと同じくパリスを責めているとはいえ、彼の険しく必死な表情と比べると、彼女のそれは同じく必死ではあろうがあまり険しさは感じられない。彼女の必死さは、よくもまぁ面倒なことに巻き込んでくれた。お前がいなければ私が夫にいちいちいわれることはないのに。といったように、パリスが戦場から逃げ戻ったことを責めることからではなく、ただただパリスが消え去って面倒ごとが自分に降りかからないように願うことから発しているように見える。
 それに加えて、この絵にはもう一つ面白い点がある。それは、中央でスポットライトを浴びる三人の影にいる、もう三人の女性の存在だ。一人が手前に、あとの二人は三人の奥、ひさしのかかったところにいる。パリスは、ヘクトールがくるまでおそらくこの三人の女性と、もしかしたらヘクトールの妻とすら、談笑を交わしていたのだろう。奥にいる二人の女性は、パリスが二人から責められている姿を見てなにやら大変なことが起こっているのかもしれないというような表情を見せている。彼女たちの明日の話の種は、この情けないパリスのことになるのであろう。そして、手前にいる女性はそんな出来事にもわれ関せずといった感じで、自分のやるべき仕事に取り組んでいる。この対比がまた面白い。パリスのことよりも、今やるべきなのは自分の雑務なのだ。
 国としての重大事である戦争を放り出して逃げ戻ったパリスとそれを責めるヘクトール。彼らは一応なりにも戦争の重要さを理解しているのだろう。一方、後の四人は戦争よりも自分のことが大事であるように見える。これはつまり、国の存亡にあっても女性が大事とするのは家庭ということを意味するのだろうか。