いろいろと思うこと

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”あひるの子” ジョン・エヴァレット・ミレイ作 国立西洋美術館所蔵

 縦長の長方形のカンバスに、一人の少女が描かれている。この少女は、一見すると非常に可愛らしい。目鼻立ちははっきりとしているし、服装は子供っぽさを感じさせながらも真っ直ぐにこちらを見つめる視線には、どこか大人びた感じが含まれている。姿勢を正してしっかりと立つその姿は、どこか良家の令嬢のような、教育の行き届いた子供であろうかのようにさえ感じられる。彼女からいったん視線をはずして、下のほうに目を向けてみる。彼女が立つその下には水辺があり、そこには4羽のアヒルが浮いている。一番右側には親のアヒルが1羽いて、そしてその隣に1羽、左側に2羽の子供のアヒルがいる。これもまた、少女の愛らしさを彩る一つの要素となっている。
 さて、少女とアヒルを鑑賞し終えた後、少し視線をいろいろなところに移してみると、不思議なことに気がつく。それは、少女の立つ背景があまりに暗い点と、一見して可愛らしい少女の服装が少しばかりおかしい点である。背景については、少女の姿を際立たせるためにあえて暗くしたという説明ができるかもしれない。実際のところ、その方が妥当な考えであるように思える。ただ、服装を加味してもう一度考えてみると、それは少し違うのではないかということが次第にわかってきた。
 少女の服装は、少し見ただけではなんら変なところはない。むしろ、当時としては裕福な家庭で育っただろう服装でさえある。それがそうであったとしても、本当の問題は、その服装の細部についてだ。彼女の靴に目をやると、両足には穴が開いていることに気がつく。腰の部分にある紐は、彼女にあてがわれた、大きすぎてどうしようもない服をどうにかして着るためのものであろうか。その紐にしたって、後ろに垂れるところからして明らかに長すぎるものだ。そして彼女の髪は、伸びるままに任せて櫛づけさえされていないといったように、まったく整えられている形跡が見られない。彼女の家庭が裕福であるという前提をおけば、前の二つは奇妙であるし、たとえ裕福でなかっとしても、髪に関してはまったくの言い訳がたたない。
 そういった風にこの絵を見ると、この少女の可愛らしい感じは途端に違ったものへと変わる。彼女の表情のかたさは、大人びたというよりは、親の愛情を知らずにどう自分を表現すればいいか分からない子供の苦悩を表しているようだし、姿勢の正しさは行儀のよさというよりは、行き過ぎた躾に対する恐怖からくるもののように思えてくる。彼女はまったく気丈であると思う。ただ、その力強さの中にも弱さが感じられる。それは、目線である。こちらをじっと見つめる、少しうるんだようなその視線は、私たちに対して何らかの救いを求めているように見える。それはさながら遊廓に身を落とされた女性の悲痛さを持っている。そして、その遊廓の女性と同様に、私たちは彼女を救うことはできない。彼女が立つところは、水辺である。そこから先に私たちの存在があることは絶対にない。私たちは彼女を見つめ返すほかないのだ。ハンカチをぎゅっと握りしめながら、彼女はずっとそこに立ち続けるのだろう。

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